BaniyatarLaligurans Day Care Centerについて

12月24日バニヤタールのラリグランス保育園を訪問しました。
今園児は65名で先生は3名です。
ここでは園児から小額ですが月謝として月10ルピー(17円)給食に同じく10ルピー集めています。給食代は穀物で受取ることもあるそうです。
自分の子供に教育を受けさせたいと言う意識を高める為にも無料と言うのは良くないとシスターは考えておられます。
でも無料で受け入れている子供もいます。
部屋は4室あり、2部屋を小さな子供達の部屋と少し大きな子供達の部屋に分けて使われていました。あと1つはキッチンにあと一つは事務室です。
この日は半日授業だったのですが、クリスマスのためか卵2個とチョコレートなどの入ったお菓子袋が全員に配られていました。
ラリグランスクラブからのミルク・卵支援と借部屋代金が役に立っていることが確認でき嬉しく思いました。

その他,近所に幼稚園ができたそうです。そちらの幼稚園のほうが条件が良いので月謝の払える子供はそちらに移ったということです。
川が開発され砂場が奥に移動していくことで、砂場で働く家族も奥に移動し、ラリグランス保育園も奥に移動することが起こるかもしれないとのことです。

BaniyatarLoyara Student Home(男子寮)について

現在は、60人の寮生が生活をしていました。
寮のお父さん代わりの
Fr.James、そして、韓国からのキムさんというボランティアのお兄さんが、子供達の面倒を引き受けてくれていました。

 
私たちが、この寄宿舎を訪れたのは、ちょうどクリスマスイブの日。子供達は、部屋に集まって、カードらしきものに、一生懸命針と糸を使って、模様を書いていました。
「これは何?」「カードだよ。」「え?これを作って、売り物にするの?」「違うよ。クリスマスだし、シスターやファーザーに贈るの。」
これを聞いた瞬間、私はとても恥ずかしい気持ちになりました。私からみれば、「ここの寮の子供達」=「貧しい」という観念があります。貧しいから、どうにかしてお金を作る方法を考えている、という思いがついしてしまったのです。
クリスマスに、ファーザーやシスター方に感謝の気持ちを伝えたいというとっても気の優しい子達でした。

 また、もう1人、中学生くらいの子かな、私が話した子がいたのですが、「ココとチプリンとどっちが好き?」「ココがいい。勉強もできるし、何もかも便利だから。」「ファーザーは好き?」「うん。」って、はにかみながら答えてくれました。
 みんな、ファーザーが大好きなんだな、って思いました。
 これも、日頃のファーザーの努力がみんなの心に伝わっているんでしょうね。


 女子寮について

女子寮に関しては、とにかく時間不足で、ピスタニヤ女子修道院のシスターから話しを伺うことが出来ませんでした。
現在は、
40名の女の子達が共同生活を送っているとのこと。
私達が訪れた時は、ちょうどミサが始まる前。子供達は、鏡を見ながら、髪の毛を赤いリボンで結んで、一生懸命オシャレをしていました。

Knitting Projectについて(今後、Netting Project をどう展開するかも話し合ってきました)

今回、私は初めてknittingの現場を視察させていただきました。
私のイメージでは、バニヤタール村の大勢の御婦人方が、和気あいあいと編み物をされている現場をイメージしていたのですが…、
実際は、数人の女性達が、ムスッとしながら、商品出荷前のラベル貼りをされていました。
ムスッとしている原因は、サンタさんの厳しい商品チェック。
そして、今回、私達が、更に新商品を開発すべく、新しい商品サンプルを持参したことにより、「こんなのできるわけナイ!」というような表情。
会議室側と現場とのギャップ。私はとても心が痛みました。
私達とバニヤタールのお母さん方との間に挟まれている、サンタさん、そしてモティさんが気の毒に感じました。

 ファーザーからもこんな意見がありました。
Knitting Projectは完全に失敗です。」と私に言いました。
とにかく正確さを要求する日本人の考え方が理解できないとのこと。ファーザーの前で何だか腹を立てて爆発している
Knittingのお母さんを私は目にしました。でも、そのお母さんは、Knittingで得た収入を、寮の男の子達にお菓子でも買ってあげて!と言って、ファーザーにお金を渡していた、とっても優しいお母さんなんですよ。
ファーザーは、「彼女達に、仕事を与えてくれたことは大変嬉しい、けれどもこの仕事は彼女達にとって難しすぎる。他に、彼女達のストレスにならない仕事が何かないか探してみてはどうか?」とのことでした。

 今回Knittingのことで私がした仕事

1:今後、ニット帽や襟マフラー以外にも、日本で売れそうな商品のサンプルを編んでもらうことにしました。
日本から、通信販売カタログや手編みのセーターの本などを参考に持っていきました。
ケープやレッグウォーマー、ベストなど、次回の訪ネ時のサンプル品の出来上がりがとても楽しみですね。

2:今回、襟マフラー20枚ニット帽子58枚を持ち帰りました。
今回は、モティさんに、それぞれの原価を全て計算して頂き、その金額を支払ってきました。今後、出来あがった商品は、モティさんからその値段で買い、日本で利潤をのせて売るという形になります。

3:ポカラのフェアプリンスホテルにニット帽や襟マフラーを置いていただいているのですが、200410月〜12月の間で、計45枚受注したそうです。
私達がネパールに到着した前日も、
18枚発送したばかりだったそうです。
今後、夏シーズンが来ても、商品を置いてもらえるように交渉してもらえるよう、モティさんにお願いしました。

 一番気になるFr.Jamesの今後について

ジェームス神父の話

イエズス会と、一騒動あった神父様ですが、今後は、男子寮とチプリンのラリグランスに専念されるそうです。(バニヤタールのラリグランス幼稚園はノートルダム修道女会が、女子寮はピスタニヤ女子修道女会が、Knitting Projectはモティさん・サンタさんに全権が渡されています。)

ジェームス神父は、特にチプリンでの活動に力を入れたいとのこと。チプリンでは、小学校(5年まで)しかないので、6年生〜12年生の子供らの支援、そして、村人が働けるようなトレーニングに力を入れたいとのこと。
しかし、ここでも問題になるのが、お金です。今、現在、イエズス会としては、チプリンでの宣教活動程度の予算は認めているそうですが、その他のことは、自分でサポーターを探してきなさい、とおっしゃっているようです。
ファーザーとしては、とにかく、私達に、スポンサー探しをして欲しい、とおっしゃっていました。衣類の提供、食べ物、学用品、何でも構いません。全ては難しいので、例えば、食べ物の30%という形でも構いません。その保証があれば、ファーザーが活動をする、またイエズス会がファーザーの活動を認める後押しになるので、どうか宜しくお願いします、とのことでした。


はっきりした事業計画は1月9日にインドからイエズス会のトップが来て会議が開かれてから決定するということです。
12月初旬に神父様の活動を続ける許可が出たということだったので事業内容についての会議なのかもしれませんが、、。

谷澤さんの報告は大変大切な問題提議をしてくれました。大きく分けるとKnittingProjectのあり方とジェームス神父の活動支援のあり方が問われました。

Knitting Project のありかたについて

1日中、背中いっぱいの砂利運びをして1日1ドルの収入を得るのが精一杯。幼い子供がいればそれさえ出来ないというお母さんたちに、それに変わる仕事を作ってあげることで始めました。
お母さん達は大喜びでドンドン編みました。けれど最後の仕上げがルーズです。それはお母さん達にとっては些細なミスでしかかないのです。神父様も同じように感じられ、この編物Projectは難しすぎて失敗だという結論を出しました。
でもその考えは間違っています。粗雑品は日本では売れません。サンタさんにそのことを分かって頂き徹底的にやり直しをさせました。
今編物を止めて他のものを考えても同じことが起こります。彼女達にとって編物が難しいのではなく丁寧に仕上げるのが難しいのです。今例え簡単な箱作りのような事を始めても最後の仕上げがルーズになることは目に見えています。編物の場合はほどいて編みなおしが出来ますが箱などの場合はゴミとなって捨てなければなりません。
私たちは編むための工賃を払うことだけではなく、丁寧にすることの訓練のチャンスを作ってあげているのです。
その事を大切に出来るかどうかが婦人達が将来貧乏な生活から脱出できるかどうかに繋がっていくのです。


ジェームス神父の活動のあり方について

貧しいネパール人の自立を願いその手助けになる活動をシスターや神父は模索し実践されています。

シスターの活動は私たちは同じ日本人同士ということもありバンデイプールのノートルダムスクールを築いてこられた実績もあり理解しやすく納得もできます。
ジェームス神父はインド人で私たちとは国民性の違いもあって分からないことがあります。でも身一つでバニヤタールの人々の所に飛び込み体験的に人々の気持ちを受け止めておられ彼の意見は人々の意見と信じさせるものがあります。

でも神父を信じ込んで彼の望みどおり寄付金をそのまま渡すのには抵抗があります。編物プロジェクトに対する考え方の相違から分かっていただけるかと思います。

この1年は、シスターと神父様の意見を尊重しながら私たちの取るべき道を探っていくことになります。

ネパール初めの印象

ネパール到着。
ネパールに足を踏み入れたとたん、私たちの目の前にチップをせがって集まってきた人々に私は少し困惑してしまった。それに続き、空港付近には、銃を持った兵隊さん。とんでもない国に来てしまったなぁ!何が起こるかわからない国!すっごくおもしろそうー!!これが私の初めの印象。
日本と全く反対の世界に来たような気がして、それがまた新鮮でもあり、魅力的にも思えた。
空港からモティさんの家まで、タクシーで(このおんぼろの車がタクシーなの??)激しい振動を感じながら10数分ほど走った所がモティさん宅。途中、頭に大きな籠を乗せて歩く女性を見た。これがネパール人の装い?社会の教科書で見たとおり!!

パシュパティナート

モティさん宅到着後、さっそくカトマンズ市内観光といって、モティさんは私たちをヒンズー教のお寺の火葬場に連れて行ってくれた。
こうして来たその日にネパールの代表的宗教の1つであるヒンズー教の教えに触れることになった。火葬場はガンジス川に続く川の川際にあり、死者は聖なるガンジス川に行き着くのだ。
生きること、死ぬこと、これは世界中の人類共通の人生のテーマ。


ナガルコット

ネパールに来てから、脳の覚醒作用に任せて目覚めることは、まずなかったと思う。折角来たのだから、という気持ちと興奮から、毎日ハードなスケジュールをこなしていたように思う。
今日はヒマラヤの日の出を見るために、5時前に起き、タクシーが来るとすぐ、出発した。
山を上りはじめると、段々畑の斜面に点々と家の灯りがついている。ネオンの光とは違う、生きているという証のようなその光はまるで蛍のようで、儚げだけれど強く見えた。山道をかけていくことができるくらいの所で、車から降り、電圧塔?のような展望台に上った。それと同時に雲間から陽が昇り始めた。これ以上きれいなオレンジにはもうならないだろうと思ったその時、まぶしいまぶしい太陽が顔を見せ、世界にやさしい光線を投げた。それを受け、南の山は紅潮し、北の山の稜線は空と山との明暗をはっきりと際立たせた。世界中に魔術がかかり、私たちはその世界にうっとり身を浮かべていた。「世界の屋根」を見た感動を足元に付きまとわせながら車を降りたところまで下っていくとタクシーの運転手さんが笑顔で迎えてくれた。

チトワン行き中止

野生の象に乗れるんだー!!毎晩寝不足にもかかわらず、今朝も寝たりずまま起きたのに、結局飛行機は飛ばなかった。本当なら、バスでも行けるのだが、内戦でチトワンまでの道が封鎖されているらしい。日本のような先進国の暮らしが幸せなのかはわからないけれど、次来た時には、こんな理由で道が中断されなかったらいいのにな、平和になったらいいのにな、という友達の言葉が今も忘れられない。

サンタさんとの買い物

チトワン行きが中止になって、再びサンタさんの待つ家にお邪魔することになったので夕食に日本食をご馳走しようということになった。
サンタさんいきつけの地元の商店街に買出しに行く。夕食の買い物ほど、そこに住む人々の暮らしを垣間見られるチャンスはない。地元の人に必要なものは全部ここで揃うという商店街には活気があった。サンタさんは砂埃の中を肉屋、粉屋、魚屋、八百屋と足早に歩く。どこの国でも主婦は忙しい。肉や魚、野菜は天秤にかけて値段を決める量り売りだ。商人が品物をひょいと秤にかける姿を戦後の日本のイメージに重ねながら見ているのはとても面白い。
客と売り手が交わす言葉を耳にしながら混み合った商店街を後にした。

写真はお世話になったサンタさん

別れの朝

パッキングを終え、居間にいくとサンタさんが帰路の安全を願って私たちのおでこにティカをつけてくれた。ティカは結婚している女性は髪の生え際に、未婚の女性は眉の上につける。
帰りの空港までの道はモティさんのバイクで走った。でこぼこで砂埃の道も、砂埃の中で暮らす人や牛や鶏や犬も、黄土色の土に染まって視界から消えていく。
ネパールは気高いものも、そうでないものも、人も、動物も全部一緒に生きている。のんびりと、したいように暮らし、お互いの存在を認め合う。自由に見えるがそこには厳しいカースト制度がしかれ、貧しい暮らしを強いられている人々が大勢いる。日本人にとってどこか懐かしさを感じさせるとともに、厳しくもある国だと思った。

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