** 2011.5. 発行 **
ネパールの政情は全く進展しない状態です。
制憲議会の任期は5月28日に切れ新憲法発令と言われていますが
国民は誰も新憲法発令の実現を信じてはいません。
私たちが帰国のときは無意味なストライキで空港まで歩かされました。
ネパールで目立ったのはガソリンの不足と停電です。
通電時間が短くてバッテリー充電もままならず頼りは懐中電灯とローソク生活でした。
これから日本でも電気なし生活を体験させられることになろうかと思われますが
おかげさまで私たちは大丈夫です。
1 | ネパール活動の視察報告 久堀洋子 記 |
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2 |
2011年度 ネパール体験旅行記 |
3 | Raj Kumarを 悼む |
4 | 日本での活動近況 |
5 | あ と が き |
久堀洋子 記 (photo by SONOKO)
☆ ナラ村のW.E.Pを訪問
4月17日、ナラ村ツクチャにあるWEPを訪問しました。
麦が実り、新緑が美しいナラ村の小道を歩くと、排気ガス一杯のカトマンズとは違い、思わず深呼吸がしたくなります。
昨年は16人の生徒さんの授業参観をし、ピクニックで大盛り上がりだったことを思い出します。
いつもは早朝の授業ですが、私たちの都合で、今日は朝9時に集まってもらうことに。
教室を提供して下さっているルースさん(ナラ村で初めてSLC試験合格、CMAの勉強をクラブがサポート)のお家の前には、既に、ルースさんのお母さん、男先生シャム・マング・ラムテルさん、先生のご両親(共に生徒さん)が待っていて下さいました。大きな牛もときどき鳴いて、生徒さんを呼んでくれているようです。
それからやってきたのが、緑色のクルタのよく似合う、丸顔で若々しいサリタさん。新婚ほやほやだそう。1月から参加。早速インタビュー。「小さい時は、学校が遠いし、弟や妹の世話が忙しくて、学校に行けなかった」「バスの行き先を書いたものが読めるようになったのがうれしい」「夫も私が勉強することを喜んでいる」「ネパール語の読み書きが出来るようになったら、他の勉強もしたい」「農家の仕事は忙しくて、忙しい時はお葬式にも行けないぐらい!です」
それから、ボツボツと生徒さんが集まってきました。生徒さんの一人が「日本は大きな地震と津波があって、大変でしたね。皆さんやお友達は大丈夫でしたか?」と尋ねてくれたので「大変な被害が有りましたが、私たちは地震のあったところからは大分離れていますから大丈夫でしたよ」と答えました。さすがそのニュースはこんな小さな村まで届いているのか!と感心したら、「ドウリケルの病院に勤めているルースさんがテレビでそのニュースを知って、1カ月後にこの村に伝えてくれました」と教えてくれました。
今年のWEPの生徒さんは10人。昨年まで男先生と一緒に先生をしてくれていた、元気な女先生の、フロンジータ・ラムテルさんはお仕事が見つかってやめたとのことでした。
生徒さんは1人欠席で、9人で授業が始まりました。
今回は屋内ではなくて、日の良く当たるお庭にござをひいて皆さん座ります。
今年変わったことは、大人の識字学級用の教科書が出来て、それを使って授業をするようになったことでした。
順番に音読をしました。かなり長い文章を読みますが、堂々と読む人、恥ずかしそうな小声の人。
その教科書にのっているWEPの歌をみんなで歌ってくれました。確か去年も女先生のリードでその歌を歌ってくれましたが、先生の口移しで覚えて歌うという印象でしたが、今回はみんな教科書の歌詞をみて歌っていたので、その違いにビックリしました。
授業の最後に、内気そうなジュナさんが「詩を作ったので聞いてください」とノートを持って立ち上がりました。
「心を耕す」
私の生活は
毎日 くわをもって
土を耕し 作物を 育てることでした
いまでは WEPのおかげで
えんぴつをもって
紙の上で 知識をそだてることを おぼえました
夫は 女ともだちと 私の知らない 英語ではなし
楽しんでいます
私はそのよこで 姑の世話をします
これまでの生活から ぬけでようと
私は 勉強するのです
最後に、あみだくじによるプレゼンント。モティさんの奥さん、サンタさんが折りたたみ傘を用意してくれました。当たった傘を早速広げている人、なかなかたためなくて困っている人。先生のお父さんには赤い派手な傘があたりましたが、お母さんには黒い傘が当たり、直ぐに交換できて、何だかみんなホッとした顔つきでした。
私たちにもプレゼントがありました。お誕生日などに渡す小さな飾り物でしたが、うーん、ネパールらしい!
皆さんに送られて、また、小道をとおって帰りました。
☆スカラーシップの子どもたちの家庭訪問
WEPの帰りに、スカラーシップのサポートしている子どもたちの家庭訪問をしました。毎年、子どもたちが1年間でどのように成長したかな、と出会うのを楽しみにしています。
*シリスティ・ドウラル
去年に比べて、ぐっと背がのびて、顔もふっくらしていました。
3歳の時に心臓の手術をしたせいか、華奢な体つきでしたが、今では体も丈夫になって、元気に学校に通っているとのことで、ホッとしました。
「将来の夢は?」と聞くと即座に「医者です!」という答えが返ってきました。
お母さんは「サポートを受けているお陰で、学校の諸費用を払ってもらえるので、お父さんがしている靴屋さんの店の借金を返すことができた」と言ってました。
新学期を迎えて、今年は去年より良い成績を取れるようにと励まして、別れました。
家の前でいつものように母子で写真を撮りましたが、笑顔が明るい様でした。
*アシャ・タパとアヌプ・タパ の姉弟
彼らの父親は9年前に別の女性と結婚して家を出てしまい、母親も6年前に出稼ぎに行ったっきり、音信不通。祖母(母親の母)と3人で暮らしている。
所が何ヶ月か前に突然母親が帰ってきて、一緒に暮らせるとアシャは希望を膨らませていたが、どうもそうは行かないらしい。
家庭訪問をすると、去年と比べると家の中はこざっぱり片づいている。
祖母は体が不自由なので、アシャが家事全てを切り盛りしているが、なかなかスッキリ片づいてなかったので、母親の手が入ったことは確かである。
母親との関係について、モティさんに聞いてもらうことにする。アシャは時々、すすり上げて言葉に詰まったり、泣きだしてしまったり、とても良い関係が築けているとは思えない。
後で聞いた話だが、出稼ぎで稼いだお金は、人に貸してかえしてもらっていない。だから、子どもたちに渡すお金はないし、また、近々家を出ていく、と言っているそうである。
そんな家庭内のごたごたのせいか、アシャは勉強する気になれず、成績はクラス15人中10番目。ガールスカウトに入って、「楽しい活動も、旅行も出来たけれど、勉強がおろそかになるから、新学期からは止めて、勉強に専念して頑張りたい」と言ってくれた。
アヌプはお母さんの出現に姉のような希望は持っていないらしく、淡々としたもの。成績はクラス29人中25番目。今年はもっと頑張らないとラビンのようになる(後述)と
思ったのか、ちょっと真剣に「今年は頑張ります」と誓ってくれた。
* ラビン・カルマチャラ
ラビンは母親と、アシャの家で待っていた。
一昨年バクタプルの家に行ったときに、成績が悪いので「この1年間で成績があがらなかったら、サポートを止めるから、そのつもりでがんばるように」と申し渡していた。
しかし、去年度、成績は変わらず、努力の跡は少しもみられなかった。 ラビンに去年のこと、サポートを止めることについてどう思うかと、顔を見て問いただした。彼は下を向いて黙っているばかり。
アヌプを呼んで、隣に立たせて去年度の成績をふまえて今年はどうするのかときくと、「今年は頑張ります」と小さいけれどはっきりした声で答えた。
ラビンに促すと、「わからない」 母親が代わりに「頑張らせる」と言ったが・・・
私立校から公立校に転校せねばならないが、新学期に必要な制服や教材などにかかる費用は、クラブから払う約束をする。 辛い判断だが、仕方が無いだろう。
同様にアニタ・ビシャカルマも成績が上がらないので、後日モティさんに通告しに行ってもらうことにした。
* ビシャル・タマン
ビシャル宅についたのは7時過ぎ。
丁度停電で、真っ暗。部屋には従兄弟など親戚が沢山あつまってくれていたが、全然見えない。
ろうそくの光の中で、話をする。
ビシャルは私たちが座ると、すぐ棚の上から何かとって私たちに見せてくれる。通知表だ。なかなか良い成績で、行動面で社交性?のところだけB。
はにかみやさんのビシャルらしい。となりの従兄弟となにかささやいては、笑っている。
母親も再婚し、弟が出来たことで家庭が安定しているのが感じられる。そのうえ、近くに親戚もいて、色々サポートしてくれている。ネパールの子どもにとってこんな環境は、珍しいかも知れない。
今年もがんばって!と励まして別れた。
早朝6時半、チャリコットにむけていざ出発。車はモティさんの友人ニューパニさんが出してくれて運転はニューパニさん。モティさん夫妻と相棒Y子と私の5人で楽しい旅の始まりです。
去年整備されたニューロードから、今年日本のジャイカからの支援で出来上がってほやほやのバクタプールへの舗装道路を快適に飛ばします。快適と言ってもでこぼこ道が改良されただけで埃が舞い排気ガスが淀みマスクが離せないのは毎度のことです。
サンガを過ぎ識字教室への分岐点バネパを7時半に過ぎ、程なくドルリケルに来るとようやく美しい田園風景が現れ新緑の美しい森の中の道になりマスクを外します。そしてこじゃれたレストランで朝食。トーストに炒めたジャガイモに目玉焼きという定番です。美味。
又車に戻って、2年前に行ったチベットとの国境に繋がるルートとの分岐点スルコシから進路を右にとりチャリコットヘ。
わお〜!待ちに待ったヒマラヤの雄姿が木々の間から見えてきました!
(写真はルート分岐点のスルコシ と チャリコットの街)
チャリコットヘは4時半ごろ着きました。ホテルの前には素晴らしいヒマラヤの風景が広がります。今回の旅はヒマラヤを見ながらのんびりしたいと言う希望が叶えられて満足満足。もう旅は終わった気持ちになって眠りました。
朝5時半チャーターした車に乗り込み、ご来光を拝みドラカ寺に行くという。悪路でニューパニさんの車では無理と言うだけあってすごいでこぼこ道1時間。でも周りはラリグランス、シャクナゲの花の森で美しい!着いたところにあるのは見上げるようにそびえる山。軒を連ねるチベット系ネパール人の茶店でチャウメン(ネパールの焼きソバ)の朝食を囲炉裏端でとる。
(写真は、白いシャクナゲと 桜草の仲間)
直登1時間半の山頂にはドカラ寺があり、赤ん坊を背負った母親、子ども、学生、家族、老人が次々と供え物の鶏やヤギを連れてお寺を目指して登って行きます。
Y子は敬遠。私は元ワンゲル部員の意気込みで頑張ることにする。
しんどい。けれど景観は素晴らしい。曇が出てヒマラヤは姿を隠してしまったけれど、白、ピンク、紅のシャクナゲの大木の花々が彩り、ドラカ山の対面にあるガネッシュと呼ばれるガネッシュ神の形をした岩山に見守られながら1歩1歩足を運ぶ。
途中小休憩して歩き始めたとたんに、ひどく咳き込み呼吸が乱れ頭痛もしてきた。モティ夫人のサンタさんも頭が痛いという。標高2800mと聞いているから大丈夫のはずと、頭と肩をマッサージし合い腹式呼吸をし体調を整えて又登る。
ようよう辿りついた狭い頂上の祠には、額に赤いティカをつけてもらいプジャを捧げる人、お金を投げ入れる人、歌う人、踊る人、鶏やヤギの首をハネる人で満員状態。
山頂の陰には、残雪があり何と崖からは大きなツララが何本も下がっている。
ネパールの自然の中に身を置き歩き果たした達成感に気分は高揚し感動で涙の出る思いでした。
(写真は頂上にて )
下山した後聞いてみると頂上は実は標高3900mとのこと!そ、そんな〜!途中具合が悪くなったのは高山のせいでした。山小屋のあるのは3200m。高山で高度差700mを一挙に登るのは危険というのを知っていたので驚きました。高山病で死んでいたかもしれません。
この歳で無事にこんな体験が出来たこと、ガネッシュ神にお祈りしながら登ったからよ。神に感謝。
下で待っていたY子さんも、山小屋の女主人から鶏を1羽しめて羽をむしり清めて鶏カレーに仕上がるまでを披露してもらったり、建設中のホテルの内部を見学させてもらったりして有意義な時間が持てたと喜んでいました。
次の宿泊所ジリ。
ジリはエベレストトレッキングの出発地点で有名。
でも外国登山者の殆どは飛行機でルクラにとびトレッキングを始めるようで登山者は少ないです。
ポーターたちはここから歩いていくかもしれません。
<余談> そうそう、ネパールに来る飛行機で、登山家の野口健さんと一緒になりました。同行者なしの1人です。 大ファンなのでつい話しかけてしまいました。親しくお話してくださいました。 想像通りの好青年!彼のブログによると今期エベレスト登攀にむけての身体を慣らすためロプチェピーク(6119m)に登山中。 到着出口を出るとワッとスタッフの人が駆け寄ってこられました。 |
ジリにはスイスからの支援で、1954年にに美しい街つくりとTechniqual School(職業訓練校)が建てられました。ネパールのスイスと言われているそうですが、街並みは全くスイスに似ていません。でも訓練校はなかなか良いものでした。ニューパニさんの知り合いが校長ということで特別に案内していただきました。
牧畜、農業、衛生、手工芸などを学ぶことが出来ます。
SLC試験に合格しなかった子ども達もここで手に技術をつけるために勉強が出来ます。2年のコースで現在1学年120名の生徒が学んでいます。
寮はありません。
ネパールの教育事情が恵まれていないのは事実ですが、けっこう村単位で学校に行けなかった子どものための研修校や大人の女性のための識字教育を受ける組織があるようです。
ネパールも私たちのような外国人ボランティアに頼らず,自分達で教育の重要性に気付き,それが国の発展に繋がることを知ってほしいです。
Dhulikhelで宿泊の予定だったけれど、ガソリンが乏しくてガソリン調達に時間を喰い宿も見つからずで一路カトマンズに戻ることにする。
(写真はジリのホテルの部屋 と ニューパニさんの韓国産1200ccの可愛い車。 流れる冷たい山水で車や顔を洗いリフレッシュ。モティさんたちはゴクゴクのん飲んでいましたが日本人の私たち二人は用心して口をすすいだだけです。 )
たった2泊の旅だったが中身の濃い旅だった。
今回も普通の観光客では行けない場所に連れて行っていただき貴重な体験をさせてもらってMoti さんに感謝です。
あ、運転をかってでてくださったニューパニさんにも感謝!
五十嵐園子 記
ラジュ・クマルが自ら命を絶ちました。。
彼は2010年4月からラリグランスクラブでサポートをしてきた盲目の少年です。(通信68号参照)
彼はおとなしい優しい性格で努力家でもあり国際体育競技大会で優勝したこともあります。(通信69号参照)。
音楽発表会でも良い成績をあげモティさんも競技会がある度に応援に駆けつけていました。
ネパール視察旅行での大きな目的は、支援をしている子ども達の様子をみることにあります。
1年間の成長を確かめ、それを日本のサポーターの皆様にお知らせするのを喜びとしていました。
今年は渡ネの時期が春休みになっていましたので、遠い村の実家に帰っていたルパックとラジュには会えないことになっていました。
でも実は26日にはラジュはホステルに戻っていたというのです。
26日は日本に帰る前日で帰国の準備で忙しくはしていましたが私たちは自由な時間がありました。
もしラジュが戻っていることを知っていたなら連絡を取り、会いに行き、話を聞いて自殺を思いとどまらせたかもしれません。
1人の命を救えたかもしれないのに悔しい!
悔いが残ります。
27日、モティさんが私たちを空港に見送ったあと、学校から連絡があったのです。
私たちは、視覚障害者の自立ということを目標に支援を考えていたけれど、ラジュは自分の自立はむろんのこと、さらに病気で貧しい両親を将来自分がどのように支えていけるのだろうかと思いをめぐらせていたということを初めて知り愕然としました。
かわいそうに。まだ15歳の盲目の少年にとって何と荷が重い!絶望しかないではないですか!
私たちは、命をかけて示してくれたラジュからのメッセージを真摯に受け止め、これからの支援活動に生かせていかなければならないと決意しました。
ラジュ・クマル君。あなたの苦しみを共有できなくて本当にごめんなさい。許してくださいね。第2のラジュ君を出さないように頑張るからね。
ラジュくんが永遠の安らぎを得て、光の中で安らかに憩わんことを祈っています。合掌。
ご寄付(通信75号以降)
☆ 匿名希望者様 1名
☆ 佐々木安子様 香川佳正様
多額の支援金をありがとうございました。来年度の活動資金に繰り込ませていただきました。
本年度も頑張ります。ありがとうございました。
日本では東日本大震災と原発問題がまだ落ち着いていません。
私たちも帰国して早々ラジュの訃報を聞いたりして気分が落ち込んでいます。
通信77号には載せきらない楽しい記事もありますが、それは次号で。
楽しみにしていてください。
ラリグランスクラブは
ゆうちょ銀行 総合口座 |
記号14360 番号68422691 名義 : ラリグランスクラブ 領収書の発送が出来ません。 ゆうちょ通帳からは振込み手数料無料です。 |
振込用紙を使っての振り込み |
00960-7-244821 名義;ラリグランスクラブ メッセージを書くことが出来ます。 領収書の発送が出来ます。 ゆうちょ通帳からの振込みは手数料無料です。 |
ATM又は他銀行から現金又はカードでの ゆうちょ銀行口座への振り込み |
当座預金 支店番号099 0244821 名義:ラリグランスクラブ メッセージを書くことが出来ます。 領収書の発送が出来ます。 |
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